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岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会

岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会~寺を開かれた念仏の道場に~

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御遠忌通信

「御遠忌実行委員会の取り組み報告」

岡崎教区教化委員会は、二〇一一年度から新体制で発足し、その第一期の教化委員の任期満了を二〇一四年五月三十一日に迎えます。二〇一四年五月十五日には、教区教化委員を中心として実行委員会を組織し、「岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会」を開催します。
これらのことから「教区御遠忌法会」を機縁とした、次年度以降の教区の教化事業の方向性を実行委員会にて協議しており、「次年度以降の教区教化方針(基本施策)の策定」に向けた取り組みを行っています。
このたび、その次年度以降の教区教化中心施策として位置づけられている「真宗基礎講座」を検討している「基礎講座部門」と、讃仰講演会及び法会基調講演・パネルディスカッションを検討している「パネル講演部門」より、その取り組みの経過を報告いたします。

「真宗基礎講座部門」

仏事の本来の意義が見失われている現代において
「何故、お葬式をするのですか?」
「葬儀の後に行う、七・七日のお参りは省略してはいけないのですか?」
「法事は、いつまで、あるいは何故するのですか?」
「報恩講(お取り越し)って何ですか」
こうした問いが増えてきてはいませんか。

 儀式の「形骸化」が進んでいると言われますが、形式的とはいいながら、葬儀、法事、報恩講等の儀式が行われているからこそ、例えば「報恩講って何ですか」という問いも出されてくる大きなご縁となっているといえます。
形として、こうしたご縁(儀式)が伝えられている今、その儀式(形)にまで成ってきた願いを確かめ、そして伝えていくことが大切です。現状は「儀式」が「仏事」ではなく、単なる習俗としてしか、執行する僧侶の側も門徒も受け止められていないのが大半ではないでしょうか。伝統は人を生み出し、人を生み出さない儀式は因習といわれます。今こそ「儀式執行」が「仏事」として受け止められていくような内容を持つことが要求されているということでしょう。
宗祖親鸞聖人の生涯のお仕事は「念仏のみぞまことにておわします」というまことを、身に深くうなずいていかれたことでした。その願いが、通夜、葬儀、月参り、法事、報恩講などの仏事に十分、表現されているといえるのか。仏事が回復されるということは、一人の念仏者の誕生という、寺の本来の意義を果たしていくことです。
こうした課題を踏まえ、教区御遠忌法会を機縁として、岡崎教区において「真宗基礎講座」開催が求められています。その講座実施に向け、まずはその担い手となるスタッフを育成するため「真宗基礎講座伝道スタッフ養成研修」を二〇一四年度から始めます。この養成研修は、教義の基本的理解、伝え方、座談会の持ち方などを「真宗基礎講座」実施前に、僧侶と門徒が共に学ぶ場とし、併せて法事の場における法話の研鑽となることを志向しています。

基礎講座を企画した段階で、
「名前が変わっただけで従来のものと何が違うのか」
「そのような講座はすでにうちの組で行っている」
「事業をまた増やせというのか」
などのご意見も頂いています。
そのうえで各地域・組・寺院での教化活動がさらに充実したものとするためにも、それぞれの場において活躍できる人を養成することが「教区」の役割と考え、まずはスタッフ養成研修を実施します(人の誕生)。
このたびの教区御遠忌法会を機縁に、岡崎教区の一人ひとりがお互いに刺激しあい、批判しあいながら、念仏の僧伽を形成していくことを願いとします。

(教区御遠忌法会実行委員会 真宗基礎講座部門チーフ 安藤誠也)

「パネル・講演部門」

「真城義麿氏」「戸次公正氏」「ケネス・タナカ氏」??? いま何故、このお三方をわれわれ岡崎教区は宗祖御遠忌法会・讃仰講演会にお招きするのか。
このことについて疑問や関心を抱いている方が少なからずおられるかもしれません。そのことに応えるべく、まず前回の『御遠忌通信No.2』では、先般持たれた「講師事前協議会の開催報告」を通じ、各講師についてご紹介させていただきました。今回は、講師事前協議会に参加させていただいたときの印象と冒頭に掲げた点をふまえ、パネルディスカッション部門担当者として御遠忌法会に向けた思いについて少し述べさせていただきたいと思います。

 このたび、お招きしている講師方のお寺を取り巻く環境は、図らずとも、教区内のわれわれの状況と同様に三者三様でありました。
例えば「過疎化により今後お寺をお取り持ちしてくださる次世代を担う人(にん)が見えにくい状況に加え、お寺の後継者もお寺の維持存続について経済面でも大きな課題を抱えている環境にある方」。その反対に「急激な門徒の増減もなく経済的には比較的安定しているが、様々な宗派・宗教の混在する地域の中で、真宗の宗風の土徳に乏しく、お念仏申すことや正信偈のお勤めをすることが共通言語として通用しない環境にある方」。また、「基本的な言語や宗教・文化が異なる環境で常に一から仏教・真宗の教法を伝える状況に身をおいていることに加え、これまで門徒会や世話方会などグループで支えられて来た寺院運営の核心とも言える部分が、個人化する価値観に晒され、関わってくださる人が減少し、既存のお寺のお取り持ちのあり方では成立しなくなりつつある環境にある方」といった具合に様々であります。
そしてどの講師も、それぞれのおかれている環境の中で宗祖の歩みを深く尋ねながら、現代社会において自信教人信の誠を尽くしておられることが十分感じることのできる講師事前協議会でありました。その具体的な講師の取り組みについては、是非みなさまにも有縁の方とともに「讃仰講演会」へ身を運んでいただき、直接お聞きしていただきたいと切に願うところであります。
また、「讃仰講演会」を教区内の三会場で開催した後、五月十五日にはいよいよ「岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会」を迎え、そのときには改めて三名の講師にお越しいただきます。当日は同朋唱和による勤行、基調講演に続き、三者によるパネルディスカッションを行います。
私はパネルディスカッションを行う目的について、岡崎教区が取り組みだしたセンター構想に込められた本質的な願いが明らかになればと思っています。その本質的な願いとは、教団を成立させている根本の精神、つまり僧伽(サンガ)の精神を明らかにすることに他ならないでしょう。僧伽は、念仏者をうみだします。その念仏者について、「念仏者とは一切衆生を『御同朋』として見出していく存在」(宮城顗 真宗教団連合発行『二〇一三年版法語カレンダー』)と、さらにその「念仏」については、「念仏とは自己を発見することである」(金子大榮 同上)とそれぞれ先師によって、教えられています。多くの課題を前に、講師だけではなく、われわれもまた同様に悩みを抱えています。パネルディスカッションを通じ、僧伽の中に御同朋として、教区の皆様と共に講師の声に耳を傾けてみたいと思っております。
現在、「葬儀や法事などの仏事」「家庭のお内仏」に対する不要論まで聞こえてくる状況が一部あります。このたびの「御遠忌法会」を機縁にそうした声がささやかれる、その背景を「教勢調査結果」を基にした客観的データから見出し、不要論の根底にあると考えられる形骸化の問題に真向かいになって点検総括し、お念仏とお念仏によって開かれる僧伽を確かめ直し、われわれ真宗門徒の未来に向けた大いなる勝縁となるよう教区のみなさまと共につとめてまいりたいと思います。

(教区御遠忌法会実行委員会 パネル・講演部門チーフ 一郷 真)