岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会
「講師事前協議会 その2」
真城 義麿 × 戸次 公正 × ケネス タナカ
聞き手 渡邉 晃純
岡崎教区御遠忌法会円成に向けて、この御遠忌を教区に関わるすべての人を挙げての取り組みとし、ともに宗祖の御遠忌に遇い、より課題を共有するべく、讃仰講演会並びに御遠忌法会に向けた講師との事前協議を行いました。
戸次 公正 氏
地域の特性・独自性に応じた教化
- 戸次 公正 氏
岡崎教区のこれまでの歩みや現状とこれからの課題について考えているとのことですが、教区でも教団全体のレベルでも一つの地域の布教伝道・教化活動を点検しているとき、「特性」と「独自性」ということをしっかり確認していかなければならないと思います。「特性」というのはそれぞれの地域性があり、岡崎教区の場合は真宗の宗風回復が可能な土徳というものがあります。
そして地域的なものだけなく、寺の数とか岡崎教区全体の広さもありますが、私たち大阪教区などと比べて土徳という宗教性に関してはかなり恵まれていると思います。それがだんだんと薄れてきて「特性」と「独自性」をどう回復するか、そのときにもう一つどこに私たちがやってきたことに間違いがあったのか、失敗や落とし穴があったのかを批判的に自己評価して検討していかないと本当の課題は見出せないと思います。
大阪の場合は摂津と河内と和泉の三つの地区に分かれていますが、全体から言えば非常に雑多な宗教性のるつぼになっています。特に高野山の真言密教があり、浄土宗も大変多くあります。また山岳と神々の信仰とごちゃまぜになっている中に大阪があって、その中に真宗の種を蒔いたのが蓮如上人です。あらゆる宗教のるつぼになっている中で真宗を語っていくことが私たちにとっては困難であります。その時に私自身は意味不明のままで音読しているお経だったら密教的な呪術と変わらないではないか、少なくともお経にはこんなことが書いてある、正信偈や和讃ではこう言われているということを、声を出して日本語で読んでわかるようなお勤めを創造して実験するのが大阪という地域性の中で一番大事なことではないかということに三十年前から気がつきはじめました。二十年ほど前からは私のお寺での法事は日本語で読む真宗の法要を始めました。これが「独自性」です。教区内では受け入れや拒否などいろいろありましたけど、私自身が日本語でお経を読み正信偈を訳することの意義を考えているのは大阪という地域の「特性」があるからです。
では岡崎ではどういう教区としての「特性」と「独自性」をもうちょっと自分と離したところから見て、客観的に自分たちが岡崎教区とはこんな教区なんだということをどこまで見られるのか、今までやってきたことが率直にいって失敗だったのか過ちだったのか自己批判的に見出していくことがないと、土徳があってもそれを耕す人がいなければ、どんどん畑は不毛になっていくと思います。本当に耕してきたのだろうか、今までやってきたことがどこまで耕してきたと言えるのかを私自身がお寺でやってきたことを含めて皆さんと一緒になって考えてみたいと思います。
教化を工夫するということ(真宗仏事の回復)
私自身が聖教を日本語で読み、意訳を作ってきた中で考えさせされた原点である「親鸞は何故和讃を作ったのか」をきっちりと学びなおして、それを今私たちの中にもう一度お勤めとしていくとしたらどういう表現が現代として可能であるかということを考えています。九州の小倉駅前の寺の跡地にデパートが建設されるということをきっかけとして、デパートの中に宗教法人仏教文化プラザとして一室設け、そこでは法話が聞け、座談会ができる場があり、寺の機能があります。また、寺の掲示伝道の言葉をきっかけに寺の門をくぐる人もいます。真宗の教えを求めている人はたくさんいます。「寺をひらく」というのは、既存の寺のイメージを変えていくことにチャレンジすることも必要だと思います。意訳による法事なども形にとらわれるのではなく、それを行うまでの過程でいろいろ悩み、試行錯誤を重ねていくことで、人が何に悩み、何を求めているのかを考えていくことが大切なのではないでしょうか。