岡崎教区について

岡崎教区とは

真宗大谷派岡崎教区は国内に30ある教区の一つであり、愛知県東部(三河地方)と静岡全県にある別院・寺院・教会と門徒によって組織されています。
また、岡崎教務所では親鸞聖人の教えを伝えるため、教区内の寺院・門徒に関する事務や様々な教化事業を行っています。

岡崎教務所

所在地 〒444-0031
愛知県岡崎市梅園町1丁目1番地2
電話番号 (0564)22-2136
FAX番号 (0564)22-6472

真宗大谷派岡崎教区 別院のご紹介

三河別院

所在地 〒444-0015
愛知県岡崎市中町野添25
電話番号 (0564)21-0625
FAX番号 (0564)21-0728
ホームページ http://mikawabetsuin.
blogspot.jp/

三河地方は、すでに親鸞聖人在世中に門徒団が形成された古い土地柄である。そして、蓮如上人期以降本願寺化し、近世を通じて在地の三ヵ寺(上宮寺・勝鬘寺・本證寺)が大きな勢力を有し、地方支配を荷った。そして門末が集中する西三河地方の南端に、赤羽御坊が十八世紀末に成立し、また天明8(1788)年の本山焼失直後、三河教団の支援対策拠点として中央部の東海道沿いの暮戸に会所が設置された。以後ここが、実質的に西三河地方の中央施設としての機能をもった。
下って明治度の両堂再建の最中、相続講の施行によりその事務取扱い施設の必要もあったものか、赤羽別院と暮戸説教場(会所改め)を岡崎に移し三河別院とし、赤羽を支院にする旨の通達が厳如上人譲職前日の、明治22(1889)年10月6日に出された。そして新購入された現在地に、明治6年開校の三河教校の合議所を移築し仮本堂とし、翌23年4月8日仮入仏法要が勤修された。
ところが、赤羽別院と暮戸説教場の岡崎移転に地元門徒が存置陳情したため、あらためて丹後峯山別院を移転し三河別院となし、同年9月22・3日に入仏・供養会が勤修された。現在の御本尊が峯山別院以来のものであり、同時に太子・七高僧も授与されている。
そして翌年、明治天皇行在所の御殿を同地の専福寺より譲り受け、29年7月に鐘楼が落成したが、翌8月30日の暴風雨のため仮本堂が大破し急遽御殿を仮本堂とし、仏祖動座した。さらに同32年対面所の落成に及びこれを本堂とした。
こうして同36年、本山旧仮大師堂を本堂とすることが決せられ、日露戦争のため工事が遅延したが、同40年上棟式直前にまたもや暴風のため倒壊した。ただちに新材を加えて再建工事が始まり、同42年12月彰如上人御親修にて入仏法要が勤修された。諸殿が次々と新造され、大正6年宗祖六百五十回御遠忌法要厳修に至り三河隋一の大念仏道場が現出した。
また、大正14年には「燕岡幼稚園」が設立され、戦後は「燕ヶ丘保育園」として幼児教育の地域社会への貢献は現在に至る。
しかして、昭和20年7月20日の岡崎空襲により念仏の大殿堂は灰燼に帰した。ただちに廃墟から立ち上がり、同25年に仮本堂を建て、同45年に現本堂の完成を見た。さらに同63年に庫裡が落慶し、別院創立百周年・親鸞聖人七百回御遠忌法要が厳修された。続いて平成元年には新御殿「香光殿」、同7年に旧茶所を東別院会館へと前面改築がなされ、三河の中心道場としての機能を回復するに至った。
それにしても、明治4(1871)年の大浜騒動に象徴される維新の波を超え、同14年から6年に及ぶ本山再建の製瓦のエネルギーは三河別院創設と度重なる諸殿再建へと引き継がれた。三河門徒の報謝行の軌跡が、次代へどう受け継がれるかが、別院存在の大きな意義といえよう。
【出典:『真宗』誌 2002年10月号「別院探訪」 真宗大谷派宗務所 発行】

※本文の無断転用はご遠慮ください。

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[] [愛知県岡崎市中町野添25] [] []

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豊橋別院

所在地 〒440-0895
愛知県豊橋市花園町8
電話番号 (0532)52-5083
FAX番号 (0532)52-9148
ホームページ -

豊橋別院の前身吉田御坊誓念寺の創立は、寛永21(1644)年高須久太夫(法名空正)寄進による梵鐘の銘文に、誓念寺は本願寺附属の道場である旨を宣如上人が誌すことに由来する。御坊の濫觴は、天文3(1534)年設立の吉田川毛道場ともいわれるが、天正11(1583)年吉田惣道場に證如上人影像が顕如上人より授与される。さらに文禄4(1595)年顕如上人影像が、慶長10(1605)年に開山御影が教如上人より授与され、後者は「誓念寺惣道場」と裏書きにあり寺号が見られる。
この川毛道場の後身が現在の浄円寺・正琳寺といわれ、さらに應通・仁長・蓮泉の各寺が、この周囲に移転して、寺町を形成したようである。その後、吉田(現「豊橋」)の城下町・宿場町としての地理的重要性が高まり、宣如上人により本願寺懸所に取り立てられ、これらの五ヵ寺が役寺となった。
これより、江戸時代の御坊については史料が少なく不明瞭であるが、境内がかなり狭少であったようで、長年にわたる門末の懇情により天保期には境内拡張と、再建の気運が高まったようである。天保7(1836)年に達如上人から再建の命があったが、連年の凶作と倹約令で延期されていた。
しかし藩主の督励もあり、安政期には募財や材料調整も成り着工されかけたが、安政5(1858)年本山両堂が類焼してしまった。ここに宗祖六百回御遠忌を3年後に控え、急遽普請中の用材をすべて本山へ寄進することになり、阿弥陀堂に用立てられたという。
その後において漸次堂宇等が造営されたようであるが、事もあろうか明治4(1871)年本堂縁下より出火し、境内の多くを焼失してしまった。廃仏毀釈の風潮の中、一時廃寺の命を受けるが地元門末の存続運動もあり、「講究所」を経て同12年「豊橋別院」が公認され、同時に厳如上人からの消息も発せられた。
2年後、本堂・広間・御殿・庫裡・女人会所等が建ち、婦人会はじめ東三河の中心道場としての機能を回復した。また大正期から戦前は幼稚園や免囚保護の教化施設が充実され、大きな特色を見た。そして昭和15(1940)年には、創立三百年記念法要が勤修された。
ところが、同20年6月19日豊橋空襲により、またもや灰燼に帰することとなる。焼土の中からの復興は困難をきわめたが、同23年には仮本堂の上棟が成り、続いて花園幼稚園の開設、同25年の仮本堂落慶、翌々年には供出を免れた御坊開創以来の梵鐘を懸けた鐘楼堂が再建された。
そして戦後40年を経て、昭和60(1985)年本堂も新築再建され、平成6年4月別院創立三百五十年記念法要が勤修され、記念誌として『念仏再興』が上梓された。さらに同13年10月、蓮如上人五百回御遠忌法要が厳修されるに至った。
4世紀に亘る御坊・別院の歴史は、崇敬部下門末の並々ならない懇情に加え、明治再興時の輪番制施行以後も相変わらぬ護持と教化を担った五ヵ寺の役割に、特筆すべきものがある。
【出典:『真宗』誌 2002年11月号「別院探訪」 真宗大谷派宗務所 発行】

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[] [愛知県豊橋市花園町8] [] []

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赤羽別院

所在地 〒444-0427
西尾市一色町赤羽上郷中14
電話番号 (0563)72-2308
FAX番号 (0563)72-2308
ホームページ http://www.katch.ne.jp
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赤羽別院親宣寺は、侍の菩提寺を前身とする全国的にも特異な別院といえる。すなわち、江戸の旗本本目勝左衛門尉親宣の両親と本人夫妻の墓二基が、現在も境内墓地に建っている。この本目家に関する文書資料は別院には伝わらないが、この墓碑銘が親宣についてわずかに告げている。
それによると、本目勝左衛門尉親宣は上六名村(現、岡崎市)に生まれ、宝永元(1704)年5月21日、68歳で江戸で没しており、「信楽院殿釈了恵大法士」とある。
そもそもこの別院の始源は、蓮如上人所縁の道場ともいわれるが、また親宣は、江戸本法寺7世良秀の弟子となった熱心な門徒で、三河の地に菩提寺建立を念願したが、三河一色赤羽の道場のことを知り、領主である西尾藩主土井式部少輔利忠に願い出た。
こうしてこの地を与えられ、元禄13(1700)年許しを得て一寺を創立した。翌年真如上人より「本目山親宣寺」号と、絵像本尊並びに法名釈了恵を授与された。この絵像本尊は、今回の調査で破損著しいものの、存在が確認された。
その後の経緯は不明瞭であるが、寛政10(1798)年兼帯所(懸所)となり、輪番が配されたようである。さらに文政7(1824)年11月、御坊にふさわしい巨大な本堂が再建され、明治中期に三河全域の崇敬の御坊としてその機能を果たした。
しかし、昭和20(1945)年の三河地震で諸殿が倒壊し、さらに同34年の伊勢湾台風で本堂も倒壊してしまった。加えて戦後、境内地を隣接の一色高校に割譲交換し変形してしまうなど、別院としての機能は急速に低下し荒廃の色を濃くした。
永らく、一部残った旧詰所を仮本堂として教化活動がなされてきたが、昭和63(1988)年、老朽化した建物や運営体制の見直し、別院の存続をも含めて、桜部建正覚寺住職(当時)を中心に検討委員会が設置され、審議を重ねた。そして、教区はもちろん西三河南部崇敬部下の協力を濃密にし、別院機能の回復と活性化の諸方途が提案された。
その後徐々に機が熟し、平成5(1993)年から境内整備の準備に入り、同7年10月、小規模ながら(仮)本堂の新築が成り殿舎も修復され、親鸞聖人七百回御遠忌・蓮如上人五百回御遠忌お待ち受け法要と落慶法要が厳修されるに至った。
こうして赤羽別院は甦り、地域の教化拠点としての充実がはかられ、別院機能をほぼ回復しつつある。それにしても、本堂はじめ諸殿を失い境内地も変形した中で、幾度とない存亡の危機を救ったのは、奇跡的に残った山門の威容であった。昭和13(1938)年地元の篤信門徒杉浦米吉翁により一寄進されたもので、戦前の隆盛から一転戦後の廃虚同然の景観と復興を見続けてきた、赤羽別院が全国に誇る名門である。
【出典:『真宗』誌 2002年12月号「別院探訪」 真宗大谷派宗務所 発行】

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静岡別院

所在地 〒420-0028
静岡県静岡市葵区屋形町10
電話番号 (054)253-1737
FAX番号 (054)253-1737
ホームページ -

駿河・遠江・伊豆三国は、元来真宗寺院の少ない地域で、親鸞聖人帰洛関連の伝承を持つ寺院も一部にはあるが、近世初頭から三河より本願寺の教線が伸張したと従来考えられていた。ところが、ごく最近の調査で、伊豆国に永正7(1510)年実如上人下附の絵像本尊が発見され、あるいは蓮如上人期にすでにこの地域に本願寺の教線がのびていたことが確認された。
ただ近世でも、地域統括の中本山的寺院は存在せず、東海道筋にあたる関係からか、三島成真寺は「御坊」を称したが、地域的な統括は江戸浅草御坊や三河吉田御坊(現豊橋別院)であった。
そして明治期となり、徳川将軍家達が家督相続し、駿河知藩事として駿府(静岡と改称)に下り、前将軍慶喜もここに移住した。同時に多くの旧幕臣たちも同道し、ここに厳如上人も駿河・遠江・伊豆三国統括の別院創建を発願した。
時同じくして、旧幕臣宮原寿三郎(木石)は徳川家と東本願寺の関係を調べるため東本願寺を往返し、次第に真宗の教えに帰し、駿府懸所別院創設に率先尽力するに至った。厳如上人も彼に謝意の歌を送り、大きな期待を寄せる文書が園林文庫に伝わる。
宮原木石は、文政10(1827)年現在の岡山県井原町に生まれ、昌平黌に学び漢学・蘭学を能くし、破格の出世を遂げ、明治元年府中(静岡)学問所にあって二等教授となり、慶喜の師ともいわれた人物である。そして仏教や真宗の教理を開華院法住師や南條文雄師に学び深められた。
木石の懇念が実を結び、明治4年3月、静岡市上石(かみごく)町の明泉寺の土地建物が本山に献納され、ここに別院としての遷仏遷座法要が執行され、初代輪番として佛現寺融了瑞が着任した。そしてのちに遠江・伊豆の門末も崇敬区域となり、三国崇敬の静岡別院となった。
ところが明治22年2月1日、時あたかも東海道線開通式の日、未明に市内より出火し、中心部千余戸が灰燼に帰する大火災となり、別院も全焼し、木石も5月に没した。同24年1月再建の標示が出されるも、同年に濃尾震災、続いて日清戦争と国難にみまわれたためか、同35年再建起工となった。もちろんこの間、本山再建事業とも重なった。
そして、同39年頃には完成を見たようで、爾来歴代輪番らの尽力により教化活動の充実が図られ、静岡県域崇敬区域の中心施設として活況を呈した。
しかし太平洋戦争末期の昭和20年6月19日夜半、静岡大空襲によりまたもや灰燼に帰した。そして関係者の並々ならない焼土からの復興努力により、同42年本堂が再建された。さらに同60年門徒会館の落成に至り、ようやく別院機能が回復された。
平成2年9月、創建120年・宮原木石翁百回忌法要が勤修され、記念に『静岡別院創立誌』が刊行された。過去の懇念を確認しつつ、新たな歴史を刻みはじめたといえよう。
【出典:『真宗』誌 2002年9月号「別院探訪」 真宗大谷派宗務所 発行】

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