ライブラリー

岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会

岡崎教区宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法会~寺を開かれた念仏の道場に~

インデックス一覧に戻る

御遠忌通信

「講師事前協議会 その4」

真城 義麿 × 戸次 公正 × ケネス タナカ

聞き手 渡邉 晃純

岡崎教区御遠忌法会円成に向けて、この御遠忌を教区に関わるすべての人を挙げての取り組みとし、ともに宗祖の御遠忌に遇い、より課題を共有するべく、讃仰講演会並びに御遠忌法会に向けた講師との事前協議を行いました。

ケネス タナカ 氏

アメリカ仏教と日本仏教

ケネス タナカ 氏

私はエンゲージドブッディズム(「実践する仏教」)など仏教の社会性や、現代人にいかに真宗を伝えていくかをずっと課題としています。
日本仏教にも「開教」の精神が必要とのことですが、アメリカでは仏教は今でもマイノリティであり、百五十年程の歴史しかなく、現代に始まったので既に現代仏教となっていることで欠点もあります。それは長い伝統がないということです。しかし、その反面、現代のニーズに応えようとする気持ちは強いですね。聞いている人が何を求めているのかを知らないということは許されないことです。宗教もある意味、競争であり、聴聞者の声に耳を傾けなければなりません。アメリカでは、プロテスタントの三割は宗派を変えるように、改宗は当然のこと、変えてもよいもの、むしろ変えるべきものと考えています。
自分が納得できる宗教へは改宗してもよいという感覚があり、宗教に関する考え方、姿勢が日本とは違います。またアメリカでは、宗教の範囲が広いし、宗教的なことに興味を持つのは良いことだというのが一般的な認識です。アメリカ大統領は自分が宗教的であることを見せないと当選できないけれど、逆に日本は宗教的過ぎると当選しません。親は自分の子どもに何か宗教を持つように小さい時から育てており、親と同じ宗教でなくてもよく、自分の納得できる宗教を見つけなさいと教えている。宗教は子どものためにも良いという考えが根付いています。
そんななか、仏教のプラクティス(実践)であるメディテーション(瞑想)に惹かれる人が多いですね。アメリカの真宗の寺院でも、アメリカ人の中に仏教とはそういうものだという思いもあるので、メディテーションを法要に取り入れているところもありますね。

お寺への関わり方(組織)

日本では、これまで伝統仏教のあり方、伝え方で間に合ってきましたが、今は若い人がお寺に来ないなど新しい関わりがもてず、対話も少なくなっているところもあるのではないでしょうか。昔ながらの農村中心の共同体の中である浄土真宗というものは、それでよかったと思います。しかし現代化・都市化した中でどう対応するかを考えなければなりません。それには、教えの内容も大切ですが組織ということも見ていく必要があります。アメリカでは、改宗者のグループと呼ばれる方たちは、お寺で会員になって全てのことを門徒として関わったりはしません。自分の興味のあるものにだけ集中して参加したり寄附したりするという、個人と組織との関わり方がかなり変わってきています。日本でも今後そのような形になってくるのではないでしょうか。アメリカ社会は個人化して、組織(ここでは共同体の意)が崩れてきています。何事においてもグループで何かすることが減っている。ある意味でお寺は、個人化に対するアンチテーゼ(反対)を表し、個人化の行き過ぎを止めるような場であって良いと思いますが、世の中が変わって個人の興味のあることにのみ参加するような傾向に対して、組織としてどう対応するかを考えなければならないと思います。真宗門徒でなくてもお寺に関わりを持っていただけるような形を模索できないでしょうか。
深い信仰を持つ人は、門徒のなかでも今も昔も限られた少数ではないですか。私はいつもピラミッド構造で考えており、深い信仰心のある人は、上の方へ行けば少なくなっていき、中間層の人などは、宗教にも関心はあるが、もっと社会性など他の理由でお寺に来る人が大半であります。そういう人たちに教えを伝えるには、単に教えを現代語訳すればいいというものでもありません。アクティビティーズ(様々な行事を行って、寺の枠組みに参加してもらう)を行い、イメージとしてはサーカスのようなビッグテントの中でいろいろな人が参加できる雰囲気を作る。しかし、テントを支えている中心柱は、法(念仏)でなければなりません。身内の死など何かのきっかけでお寺に聞法に行きたいと思わせるような場を常に用意しておくことが大切ですね。
それから、宗教家の人柄と精神が肝要だと思います。アメリカでもそうだが、教えを知識的によく知っているという人よりも、あの人は信頼できる、直感的に好きだと思われることが大切だと思います。それは言い換えれば、その人が信仰心を持っているかどうか。そのことは僧侶が思っているよりも人は見抜いてます。何か結論めいたことを言っているようですが、こういうことを常に考え続けていくことが大事なことだと思います。これらをどのようにして実践して、どのような方向性で組織を持っていくかの実践の問題があります。アメリカでは呼びかけ(Calling)が無いと聖職者になるなと言われます。

教えを伝えるということ

 東京で行われる親鸞講座では、講義一回目は多くの参加者があり、そこで仏教は自分の都合に合うような甘いものではないと講師が厳しいことを言うと二回目以降、参加者が激減してしまったということを聞きました。ピラミッド構造の頂点の人達を求めているのなら、そういう講義でもよいとも思いますが、多数派であるピラミッド中間層の人達を養成するのであれば厳しすぎるように思います。どの層が対象なのかということも考えていかなければならないですね。
また、正信偈やお経を現代語訳して伝えていくことについてはどちらかといえば必要であると私は思います。でも、訳しただけではなく、それをどのように理解して、どのように説いていくかをセットでなくてはならないと思います。
真宗は教学的にすばらしい先生方が多く輩出しているのでインテリ的な面があって、ハートというか、そういうレベルで話せない僧侶も多いと聞きます。私自身も日本で仏教を勉強し終えてアメリカに帰り、あるお寺に法話をしに行き、お話の内容は頭でっかちになっていて聴衆にはほとんど通じませんでした。法話を聞いている人からしたら、「so what?(それがどうしたの? 私と何か関係あるの?)」となってしまっていました。そうならないよう、僧侶育成の教育ではボランティアなどの幅広い人生体験をすることも必要だと思います。アメリカの開教使などは人生経験の多い人がなりますね。勉強だけでなく実践(プラクティカル)、カウンセリングのやり方とか実践の(門徒との対応に対して必要な)スキルが必要ですね。もちろん、その根底にはまずは自分が教えを必要としていなければならないと思います。そういう意味で先ほど言いましたCalling(回心)が必要になってくるのです。

心理学と仏教(自我と無我)

仏教自体が心理学であると言う人もいます。仏教は「無我」を求めるものであり、心理学は健康的な「自我」を養成するものです。社会で生きていくためには確立された「自我」は重要ですが、仏教はその「自我」を超えていくことも含んでいる。棒高跳びの譬喩がわかりやすいのですが、手に持つ棒が「自我」であり、飛び越す棒を「我」とする。跳ぶためにはしっかりとした手の棒(自我)は大切だが、跳び越す(我を超える)時には手の棒(自我)を手放さなければならない。自我は駄目だという風に頭から否定する必要はありません。発達心理学から言えば自我が無ければ健康的な無我も成立しません。最初から欲は駄目だ、自我は駄目だと言っていると、人は「では、生きるためにはそういうものは必要無いのですか」ということで、入り口をとても狭くしてしまいます。ですから、心理学とは仏教の位置づけをしてくれるものだと思います。現代人にとっては仏教に入っていく時に、心理学の枠を通して仏教に入っていく人も多く、そういう入り口を広く用意することは大切だと思います。
たとえば自分の子どもを育てていく中では自信が必要です。子ども達も自信を持っているからどんどん外に出て行くということがある。そういう健康的な自我は必要です。自我と無我は対立構造ではなく、発達の段階の違いであります。「未我→自我→超我(無我)」という発達です。仏教でも自我のレベルで貢献できる。(社会人としての健康的な自我)仏教だけで見ると自我でなく無我ということになってしまうが、まずはしっかりと自我が確立しないと無我は体現しない。自我がしっかり確立していないと仏教を変に捉えてしまう危険性があります。しかし、もちろん自我には限度があり、諸行無常を超えてはいけないですね。それを感じる人は次の段階(自己超越)へ進みます。仏教の悟りというのは、自己超越のようなレベルだと思います。信心もそうだと思います。

僧侶と門徒の関係性

多様性のない組織というのは弱体化していってしまうことを考えなければいけません。「主体性」「社会性」「智慧」というのは親鸞聖人のお考えにもあり、組織においてもとても重要なものです。
アメリカでは、お寺は住職のものではなくメンバーズ(門徒)のお寺という感覚が強くあります。僧侶は雇われる立場で、門徒がリーダーシップを持って主体的に会計予決算、運用全てを行い、組織をつくっています。僧侶の法話が下手だからといって追い出されるということはありませんが、信心が感じられず僧侶と門徒の人間関係が崩れてしまったらクビです。メンバーズが自分たちの寺としての生きがい、やりがいを感じるようなシステムになっていますね。

僧侶の悩み

日本において、僧侶が危機感を持たず満足しているということは決してないと思います。そう見えても何か葛藤があるはずと思います。一人一人の僧侶の方に聞いてみれば、教える自信が無いとかどうやって伝えたらいいのか分からないなど、引っ込んでしまって、「これでいいや」というところでの無関心に見えるだけだと思います。それは自分だけの悩みではなく、本当はみんなが共有している悩みであるのに、自分だけの弱点ではないかと感じたり、それぞれの立場や関係性からなかなか本音で悩みを打ち明けられていないのかもしれません。その壁を越えて本音で悩みを語れる「場」が必要なのかもしれませんね。それには、まずはやりたい人から始めてみて、それが波及していけばよいと思いますね。